妻と訪れた、広島県福山市にある鞆の浦。
鞆の浦は江戸末期に起きた”いろは丸事件”の際、坂本龍馬をはじめとする海援隊士が上陸し滞在した港町。
町の中を歩いていると、色々なところで坂本龍馬やいろは丸の情報を目にします。
せっかくなのでその歴史の一部に触れてみようと、桝屋清右衛門宅(ますやせいえもんたく)へと向かうことに。
桝屋清右衛門宅は、”いろは丸事件”の際に坂本龍馬が数日間滞在した商家。
「才谷梅太郎」と名を変えて身を潜めていた、屋根裏の隠し部屋を龍馬の隠れ部屋として一般公開しているのです。
坂本龍馬が身を潜めていた隠れ部屋……実に興味深い。
訪れてみれば、確かにそこは天井裏の隠し部屋。雰囲気あります。
「龍馬の隠れ部屋」がある桝屋清右衛門宅へ
福禅寺の本堂に隣接する対潮楼を訪れた後のこと。
対潮楼は、いろは丸沈没事件の際、海援隊と紀州藩の交渉の場ともなったという客殿。
対潮楼に展示されている資料には、いろは丸や坂本龍馬の情報がいくつか見られました。
鞆の浦にいると、そういった情報が色々なところで目に入ってきます。
鞆の浦にはいろは丸展示館なんかもありますが、我々夫婦が気になったのは「龍馬の隠れ部屋」。
江戸末期に起きた”いろは丸事件”の際、坂本龍馬が数日間滞在したという隠れ部屋が公開されているのです。
開館日は、金曜・土曜・日曜・月曜・祝日。入館時間は午前9時~午後4時30分。
入館料は大人200円、小中高100円です。
いろは丸事件の交渉のため坂本龍馬が宿泊した桝屋清右衛門宅
「龍馬の隠れ部屋」がある桝屋清右衛門宅。
龍馬と紀州藩側の賠償交渉の経過が記された「備後鞆津応接筆記」という文書に、桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったという記述が残っているそうです。
宿泊や生活用品の調達、積荷の売買などを行う廻船問屋を営んでいた桝屋。
建物の中には古い家具も残されており、当時の様子を伝えています。
いろは丸事件。慶応3年(1867年)4月23日、坂本龍馬率いる海援隊の乗り込んだ蒸気船「いろは丸」が紀州藩の大型蒸気船「明光丸」と現在の岡山県六島付近で衝突。
海援隊士は明光丸に乗り移り、事故現場から一番近い大きい港、鞆の浦へと上陸。「いろは丸」は途中で沈没してしまいます。
海援隊が宿泊したのが桝屋清右衛門宅。一方の紀州藩は圓福寺に宿泊。
お互いの宿からほど近いところにある魚屋萬蔵宅と対潮楼で、4日間に渡り賠償交渉がおこなわれたそうです。
“いろは丸事件”は、日本で初めての蒸気船同士による衝突事故でした。
さて、歴史を感じながら桝屋清右衛門宅の中を先へと進んでいくと、ある部屋に辿り着きます。
実はこの部屋の天井の1カ所だけ天井板が外れ、天井裏にある隠し部屋へと行けるようになっているのでした。
才谷梅太郎と名を変えて…坂本龍馬が身を潜めた「龍馬の隠れ部屋」
現在は展示用に屋根裏部屋への階段が設置されています。
この階段を昇っていくと……。
一箇所だけ天井板が外れているところが見れます。
横に置いてあるのは取り外し可能なハシゴ。このハシゴをかけて当時は龍馬が隠れ部屋に入り込んでいたのでしょうね。
こちらが「龍馬の隠れ部屋」。
1989年に発見されたこの部屋。部屋はほこりや傷みがひどく2010年より整備が進められ、2011年4月に一般公開を始めたとのことですが、壁の様子なんかを見ていると当時のままのような雰囲気が感じられます。
この部屋に潜んでいた時、龍馬は「才谷梅太郎」と名を変えていたそうです。
自分の名前も伏せて、天井板を外した先にある隠れ部屋で潜むように過ごす……龍馬がこの部屋にいたのは京都で殺害される半年ほど前。すでにこの時には命を狙われていたのでしょうか。
「龍馬の隠れ部屋」を含め、規模は小さいのですが、建物自体が美しく、中を歩いているだけで心地が良い桝屋清右衛門宅。
古き良き日本家屋と言いますか、こういった建物は良い香りがして気が和みますね。
桝屋清右衛門宅の土間スペースはギャラリーショップにもなっています。
瀬戸内をモチーフにした雑貨なんかが置かれていましたよ。
坂本龍馬好きにはもちろんですが、当時の雰囲気が感じられるためオススメの桝屋清右衛門宅。
鞆の浦に訪れた際には訪れてみると良いですよ。
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