ある晩、職場の先輩に誘ってもらって呑むことになった。
仕事上の付き合いってやつは嫌いだが、気が置けない間柄の人と酒を酌み交わすのはむしろ好みである。
その日、僕は会社から1時間以上離れたクライアントのところで打ち合わせをしていた。
先輩は会社にいたので、通勤時の経由地で待ち合わせることにした。
待ち合わせ場所には、僕のほうが30分ほど早く着いた。
こういうちょっと空いた時間が、僕は好きだ。
僕は公園でひとり、待ち合わせまでの時間を楽しむことにした。
夜の匂いと暗闇と灯りに身を任す
僕は、スカイツリーが好きじゃない。
突然だが、好きじゃないのだ。
僕の育った下町にタケノコのようにぐんぐんと生えたあいつは、僕の大好きな景色に絶対的な存在感で堂々と佇むようになった。
どこからでも見えるものは景色を画一化してしまう。
つまらない。
が、そんな景色も、薄暗い公園のベンチに1人座り、ゆっくりと眺めていたら美しく見えた。
これも一人で過ごせる時間がふとできたおかげだ。
日常の一片であれば、空いた時間があれば「何か」してしまうだろう。
ひとりぼっちで何もしない時間は、いかに普段己の感情が凝り固まっているかに気付かせてくれる時間になりえるのだ。
夜の匂いと暗闇と灯りに身を任すことで、普段持ち合わせている『感情』を『流す』ことができる。
そう、僕は考えている。
『感情』を『流す』
僕が特にそうなのだとは思うが、感情は凝り固まりがちだ。
闇はその凝り固まったイメージを溶かし、灯りがその溶けたイメージを照らしてくれる。
そのイメージは日常の眩い光の中では眩しくて見えない。
闇と共存しているような、ゆらゆらとした灯りの中がいい。
考えて答えに至るわけではなく、感情を流すことで見えるもの。
感情は溶けると水のようにさらさらと手のひらから流れ落ちていく。
その水のように流れる感情に灯りがあたることで初めて、新鮮な想いに気付く。
考えてはだめだ。
凝り固まるだけだ。
『感情』を『流す』ことでようやく本当の想いが流れてくるような感覚。
じっと闇に溶け込むように身を任せていると、かばんにいれていた携帯電話が振動した。
光の中に、戻る時間のようだ。
公園をでて大通りにでると、僕は待ち合わせ場所に向かった。
眩い光と喧騒に反応し、急速に日常の感覚が身体に蘇ってくる。
吐き出した紫煙が副流煙として体内に戻ってくるように、流した感情が少しずつ帰ってくるようだ。
それを振り払うように歩くスピードをあげた。
そんな僕を、背後からあいつが見下ろしていた。
コメント
こんにちわ。
「感情」を「流す」ですか。
考えてはいけない。
ウン!伝わってきます。
id:kame710 さん
ありがとうございます!
感情を文章で伝えようとするのは難しいですね。
同時に、面白いとも思いますが。
いつも感情にどう向き合うか、そればかり考えていた自分にとって、とても新鮮なエントリーでした。ありがとうございます。
tsunayoshiさん
こちらこそ読んでいただきありがとうございます。またそう感じていただけるよう綴ってまいります。