今、僕は川沿いにいる。
ベンチに、座っている。
4人ほど座れるベンチだが、隣にいるのはコンビニで買ってきたビールが2缶だけ。
その他には財布とスマートフォンがあるだけだ。
先ほどまでは近くに釣り人がいたが帰ってしまった。
見渡す限り人間は僕しかいない。
街灯があるから割と明るい。
川は暗いが街灯の光をてらてらと反射している。
街灯が行儀良く並んでいるから、川に映る光はピアノの鍵盤のようだ。
時折、魚が跳ねる音がする。
他には、
遠くで車の走る音。
風で走る枯葉がアスファルトと擦れる音。
自宅から徒歩10分ほどの川沿い。
何故に今僕はここにいるのか。
何処ぞの誰が読むのだろう
初めて、である。
ブログを始めてから、「無題」というタイトルを初めてつけた。
「無題」とは、その名の通り「題が無いこと」だ。
いや、「無題」という題がある以上、題が無いわけではないな。
どうでもいいことだが。
僕は絵を描いていた頃に、作品のタイトルを好んで「無題」とした。
それは憧れていたアーティストが「Untitled」というタイトルをつけていたからであり、なにやら「作品を見ればわかるだろう!」と言わんばかりの粋な計らいに感じられて、それを模倣していたのである。(だがそのアーティストも晩年、Untitled-RED-というようにサブタイトルをつけるようになった。それが大層惨めに見えたものだが、その惨めさが今はなんとなく愛しい。この記事のタイトルにもサブタイトルをつけた。ちなみに橙としたのは遠くに東京タワーが見えたからだ。意味は無い。)
しかし、アートと文章は違う。
文章は他人に読んでもらうことで成立するものだ。
特にブログともなれば、読んでもらえなければ意味をなさないようだ。
僕がブログをやっているのも、自分ではない誰かに読んでもらいたいからだ。
そこへきての「無題」である。
ブログにおいて、記事のタイトルは人に読んでもらうための重要な要素とされている。
28文字が良いとか、32文字以内が良いだの、タイトルについてのノウハウはググればいくらでもでてくるはずだ。
人が検索しそうなワードを想定して、人の興味をひくようなタイトルにするべきだ。
僕もそうしている。
それなのに。
「無題」なんて誰が検索するのだ!
しないだろう。
題が無い、のだから。
誰も読みはせぬ。
意味は無いと言うことだ
誰も読まないと言うのに僕はこうやって書いている。
意味がないのではないか。
そうだ、書くことに意味は無い。
ブログを始めて以来、多くの人に読んでもらおうと工夫を凝らしてきた。
時には悩み、苦しんだ。
それがふと、セオリーを無視した、ノウハウを無視した、「無題」というタイトルの、それも思うままに綴り、推敲するつもりも全くない文章をブログに載せようとしている。
僕はどうかしてしまったのだろうか。
いや、そもそも僕が書く文章に全く意味は無いのだ。
文章は人に読まれて始めて意味を成す。
それならば、「無題」というタイトルをつけようと、万が一誰かに読まれれば、その瞬間に意味が生まれる。
書いている間はただの文字である。
読みたくなければ読み手が止めるだけだ。
そういうつもりで、このブログにはなんでも綴っている。
今回は多少思い切っているが。
ぐるぐる回れ
つらつらと綴ってきたが、何故僕がいま川沿いにいるかというと、俗に言う「ちょっと夜風に吹かれたくて」といった心境だったからだ。
酒に酔ってしまいたくてここにきた。
それなのに、言葉が溢れて止まらなくなり、スマートフォンと睨めっこして、こうやって文章を書いている。
嗚呼!
今日は本当に嫌な日だった!
一日中、人にマイナスの感情を押し付けられ、話をしようすると誰もが小言を口にした。
夕食を済ましてから、本を読み、ここへきた。
あまりにも気分が悪かったわけではない。
思考がぐるぐるぐるぐると、落ち着いてくれなかったのだ。
今いる場所からすぐ近くに公園がある。
都内の公園にしては広く、アスレチックなんかもあって、妻との散歩のコースに好んで取り入れる場所だ。
その公園の端が、公園を見下ろす形で丘のようになっている。
その丘の頂上に東屋(あずまや = 公園によくある屋根がついた建屋)があるのだが、その東屋の周りを毎日長い時間ぐるぐると歩いて回っている男性がいるのだ。
ウォーキングなのかなんなのか。
一周5秒ほどだろう。
ぐるぐるぐるぐる。
一定のペースで歩いている。
マグロのようだな、と思った。
歩き続けていないと死んでしまうが、道はいつか途切れてしまう。
ただ、東屋の周りを回っていれば問題ない。
そんな妄想をしながらも結局、本人にとっては深い意味は無いのだろうという結論に行き着いた。
その男性と僕は似たようなものだ。
回りたいから回る。
書きたいから書く。
本人が意味が無いことだと認識してやっていても、他人が関与することで意味が作られる。
それならば、僕はぐるぐる回っていていいのかもしれない。
小説のように終わりがくればいい。
大抵の小説には決まり良く終いが来る。
長すぎる小説は飽きる。
それに反したのは僕が知る限りではヘンリー・ダーガーくらいだ。
それに比べてブログとは、終いはいつになるのだろうか。
書いている者が死んだ時。
死んだとしてもネットがある限り残るかもしれぬ。恐ろしい。
終いが見えぬからぐるぐる同じところを回るのだろう。
さて、そろそろ買ってきたビールを飲むとしよう。
言葉が溢れてきてこのように綴っていたら、時間もどうやらそれなりに経ってしまったようだ。
嗚呼!ようやく飲める。
放っておいてもビールがぬるくなる心配は無い。
さっさと飲んで寝てしまえ。
新鮮な明日を迎えるのだ。
後先考えずに飛び出してきたから、薄着な上に足はサンダルである。
秋の夜風はどうやら素足には冷たいようだ。
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